2011年02月14日

The Catcher in the Rye    J.D.Salinger

東大文学部助教授の柴田元幸氏曰く、
本作は「太宰治」と「星の王子様」と並ぶ
サンクチュアリであると語っており、
実にセンシィティブな作品です。

グラースサーガも相当特殊な作品ですが、これも相当です。


Holden With Laughing man[1].jpg


本作を野崎版2回、村上版1回ずつ読みました。
翻者が異なる同作品を2冊持ってるのは今のところこれだけ。
写真右の「サリンジャー戦記」は、同作の考察解説で
私的に本作はこの3冊でワンセットという印象。

両翻者の違いは、クリスティの「And Then There Were None」でも
書かせて頂いた表現規制の問題もあり、野崎訳のような
伸び伸び生き生きとした文体とは異なり、
村上訳はやはり上品です。
より純文学的な文章で読みやすいですが、
初読の方への衝撃を考慮すると野崎訳が一枚上手かもしれません。
でも、もし野崎訳で本書を気に入った場合は
村上訳も続けて読んでみて、両翻訳家の解釈の違いを
比較するのも興味深いです。
「あれ?この一文は野崎訳には無かったな」とか、
或いは逆に「この一文は村上訳には無かったな」といった箇所があったり、
極端な例で言うと野崎版のフィービーはホールデンの事を
「兄さん」と呼びますが村上訳では「あなた」になっていたります。
別冊のサリンジャー戦記で村上さんはこのフィービーの
「you」をどうしても「お兄ちゃん」という解釈が
できなかったと語っており、これが罷り通るなら本書の翻訳は
不可能だったとまで豪語するほどの拘りを持っているようです。

柴田教授の生徒さん(おそらく東大文学部生)が村上訳と
野崎訳を読み比べ、様々な感想をお持ちになった旨が
「サリンジャー戦記」に記載されていますが、
その中でも面白いのが、本書序盤、ホールデンがスペンサー先生の
毛布を「Sad」という言葉で表していますが、これが野崎版では
「しょぼい」といったような軽蔑の意味があるように伺えますが、
村上訳では共感や同情の意味合いが
感じられるような印象を受けたと語っている点です。

これは教授曰く、世界の全ての正解を持っているのは
俺だという色が野崎版に比べてずっと薄いから、
sadの場合も、単に相手が情けないだけで、自分は全然sadじゃない、
じゃなくて自分が悲しくなるsadnessである…
とご指摘なさっていますが、非常に機知に富む洞察です。

それ以外にも158項に於いて、

「ホールデンは崖から落ちる子供を
キャッチしたいと語っているにもかかわらず、
終盤動物園にて子供が金色の輪っかを取ろうとするのは
落っこちそうで危ないけれど、取りたいんだった
危なくても好きにさせる方が良いんだよ…と言います。
これは言い換えればキャッチなんかしなくてもいいんだよ…
と言っているとも取れる。
この違いをどのようにごらんになりますか?」


という警抜な質問が寄せられたことが記されています。
村上さんもこの質問に対して「面白い指摘だと思いますね」と
語っていますが、私的にこの学生さんの高い洞察力には
強い感銘を受けました。
言われてみれば、この矛盾は物語に於いて決定的なマターでありますが、
恥ずかしながら僕は数回
読み返しているにもかかわらず、一度も気がつきませんでした。

これについて村上さんは、

「彼(ホールデン)が考える
”イノセンスを守る”ということ自体が定義不可能なものですよね。
まるでイメージみたいなものです。
その定義不可能な総論のようなものを、
人生の目標として定義しているから、
各論レベルで矛盾が生じてくるわけです。」
(159項)

とホールデンの二転三転する言い分を巧みに分析しておられます。



まるで「自己言及のパラドックス」のようで
例えば本作も序盤からホールデンは
「僕は嘘つきだ」とかなり
しつこく言及しており、果たしてペンシーのスクールを出てからの
ニューヨークでの数日は、彼が語ったとおりの
内容だったのかは些か謎な部分が多くあります。

例えば村上春樹訳で詳しく書かれている事ですが、ホールデンは
自分の妹フィービーについて

「スペリングテストで非常に良い成績を残している」

といった内容の話をしますが、翻訳前の原文に書かれている
実際の彼女のスペルには間違いが異常に多く、
彼が自分の妹を過大評価しているのか、
それとも別の意図があるのか謎な部分となっています。
それら全ては本作を傑作たらしめる
証左となっているのが面白いですね。


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posted by makomako972 at 13:29| 読書 | 更新情報をチェックする


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