2015年07月13日

存在の耐えられない軽さ  ミラン・クンデラ


以前、コピーライターの糸井重里さんが伊集院光さんと会談なさった
ネット番組において、高い能力を持った作家として同氏の名を例に挙げておられ、
「キャッチコピーのような強い力を持った短いセンテンスを連続して止めどなく書いている。
しかも読者がそれをいくら読んでも飽きることはない、いくらでも読めてしまう。」

というような語り口で解説していたのが何より印象的でした。
それがミラン・クンデラという人物に僕が興味を持った最初のきっかけで、
代表作であるこの「存在の耐えられない軽さ」でも、
糸井さんが指摘しているクンデラの文章の特色が伺えます。
読んでみて初めの一行から凄まじい重厚感を伴って読者に語りかけつつも、
一分の隙もなく修飾語に対して結合された非修飾語、
節が雪崩のように降り注いでも、それは飽きること無く
するすると読み進めることが出来る秀逸な一作です。

存在の耐えられない軽さ



重量に関する考察、認識。



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本作においても最も重要な位置を占めるのが、
ありとあらゆる人間を取り巻く心理の軽重についてのクンデラの考察です。
精神的な概念を物質的重量の比喩として置換する…
というのは文学において時折用いられる方法で
日本文学では、自身の心理を手に持つ檸檬に準えた
梶井基次郎の短編「檸檬」がその代表作として挙げられます。

さて、本作において提示される軽重については主なものとして

① 政治的思想に左右される人間の軽重。 (トマーシュ)
 
② 愛というものの軽重。        (テレザ)

③ 生活における軽重。         (サビナ)


の3つを見出すことが出来き、主要人物三人には
それぞれ上記三点を表現する役割が与えられています。
ここでは各人が示した数多くの軽重の概念の中で
とりわけ興味深かったものを挙げてみたいと思います。


① 政治的思想によって変化する人の重量。 (トマーシュ)

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本書にはプラハの春の時期のチェコの政治的動乱と
その状況に関するクンデラの深い悲愴と失望が垣間見れますが、
それと同様に強く示されるのが共産主義思想とその統制を
企てるロシア社会のプロパガンダに対する攻撃的姿勢です。
かつて戦中の情報統制が布かれた日本に於いて太宰治が、
「新ハムレット」 などの文学作品を用いて反戦の意思を提示したように、
クンデラもまた文学という手法を用いて、自らが本作で掲げた本丸的な概念である
「軽いか重いか」 という部分がこういった政治によってそこに住む人々を含め
どのように変化するかということを巧みに描いています。
思想の融和と協調、職業選択をはじめとしたありとあらゆる自らと
他者との差異を認識させる行動や思考を統制されてしまう共産圏の政治によって、
一個人の個性という人間としての存在理由を定義するそれらの価値、
言い換えるなら「人一人ひとりの持つ重さ」を失われてしまう…というアプローチです。
作中ではトマーシュがの発表した論文に関する一連の流れや、
そういった異分子の行動を政府の言論統制やメディアを用いた情報操作で
かき消されてしまうことに何ら違和感を抱かない民衆、
或いはそういった政治情勢に反抗するにしても
形式的、集団的なパレードなどでしか表現しないというところにも
個人の重量が失われているように思われます。


② 愛というものの軽重。        (テレザ)

二人の出会いを偶然に過ぎないと認識しているトマーシュに対し、
テレザはトマーシュに対する愛という概念を用いて自らの存在意義を見出すことに強い関心が見られます。
これに関しては彼女の出生が大きく関与しており、とりわけ母親の思想が大きく影響しています。
過去に自らの魅力を司る「重さ」が、歳を重ね抗いようもなく変化していき、
普遍的な「軽さ」へと落ちていったことにより、「人間は全て同じ」とする認識を周りの人間に
提示し続けた母親の振る舞いに対し、テレザは強烈な抵抗を見せます。
その結果の一つとして前述の強い関心が萌芽したというプロセスで解釈しています。
常に自分自身に対し、トマーシュとの愛に関する「重さ」を要求し、
唯一絶対のものであってほしいという強い要求は、彼女が毎回見るという悪夢からも垣間見ることが出来、
それが自らの価値と存在を定義する絶対的な価値になっています。


③ 生活における軽重。          (サビナ)

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ありとあらゆるものに
重量の概念を代入するクンデラの文章で取り分け印象的だったのが、
サビナの裏切りの哲学や処世術に基づいたライフスタイルの一部始終です。
彼女のその軽さを徹底的に追求する排他的な状況が、いつしか自身の存在定義すら
消失してしまうまでになってしまうというのは、興味深い点です。
一般的なマテリアリストが物を用いて自己の存在を定義しようとする
傾向にあるものだとすると、人はそれを喝采したり、或いは顰蹙したりするわけですが、
顰蹙に類するその代表例として、
「ものが増えると維持費や時間が消費される、その”重さ”は効率的ではない」
とするスマイルズの自助論でも書かせて頂いた
「重荷」 という概念にあるように拝察するのですが、では文中のサビナのように
全てを放棄してしまい、自分の存在を証左するモノというのが
一切ない生活というのはそれはそれで空虚であるわけで、人間関係も同様に、
「人付き合いが面倒くさい」といって人を避けて生活すると楽には楽ですが
では「自分の存在を知る人が、この世に一人も居なくてもいいか?」
といわれるとそれはそれでやはり空虚なものです。
文中でクンデラが述べていることですが、
モノや人、或いはそれらがもたらす責任や時間の浪費という重さを
背負いきれるかという論議は巷にもありふれていますが、逆にそれらを全て失ってしまうと
人はその「存在の耐えられない軽さ」にも耐え難い存在であるというこの認識と言葉は、
僕にとって非常に斬新なものであるだけでなく、単純な二元論的解釈では
価値観や人生観を定義することが出来ないことを非常に明瞭にするもので、興味深かったです。



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posted by makomako972 at 06:22| 読書 | 更新情報をチェックする


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